空っぽの知識
 かたよりまくった読書くんの日記
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戯言シリーズ二次創作 『ジグザグイリズム』
 さんざん予告していた戯言シリーズの二次創作完成。

 ……おお、書きあがったよ。

 ヒトクイマジカルで語られなかった、紫木一姫と匂宮出夢の戦い。



 えーと、ここから少し注意点です。
 まず、ヒトクイマジカルの真相から見ると、かなりおかしなことになっていると思います。

 まあここで語るわけにはいけませんが、匂宮兄妹の解釈がかなり自分勝手に曲解されているのであしからず。その辺の言い訳は、今からコメント欄にあとがき気味に書きます。


 一つ注意。この話には『零崎人識の人間関係 匂宮出夢との関係』での話が若干登場します。まあ、致命的なネタバレになるほど出してはいませんが、そこを注意してください。
 あと、まさかいないと思いますけど、ヒトクイマジカル未読で読むのはオススメしません。はい。ヒトクイマジカルを読んだ人か、またはそんなの関係ないぜという猛者は続きを読むをクリックしてください。


 それでは。




○登場人物

 紫木一姫   ――――――――― 《ジグザグ》

 匂宮出夢   ――――――――― 《殺し屋》

 匂宮理澄   ――――――――― 《名探偵》

 ××××× ――――――――― 《×××××》



 ジグザグイリズム

◆◆◆

 夏の夜の、じっとりと絡みつくような蒸し暑さが辺りを漂っている。正に熱帯夜と呼ぶにふさわしい夜。うだる熱気は、立っているだけでも体力を奪うかのようである。
 西東診療所。
 それがその建物の名前だった。といっても、診療所の名前にもなっている院長の男がいなくなって随分になるため、現在は診療所としての機能をほとんど果たしていない。例外的に今夜は五人の人間が建物内に滞在しているが、常駐しているのは本来二人である。残されているのは、終わった研究を続ける女性と終わった存在である少女でしかない。
 診療所の一角。駐車場の対偶側にある中庭に、一つの人影がたたずんでいた。
 その少女の体格はかなり小柄である。それこそ、強風でも吹けば飛ばされてしまいそうなほど小柄で細い体つきをしている。よく見てみると、顔立ちも幼さが抜けておらず、見方によっては小学生に間違えられてもおかしくない。服装は一般的な女子高校生が着るセーラー服を着ており、そのおかげでかろうじて小学生ではないことが分かるくらいである。伸ばし始めたばかりの黒い髪の毛は、大きくて目立つ黄色いリボンで結ばれており、彼女らしさをひと目で表現していた。
 紫木一姫。それが、彼女の名前である。
 彼女は、いつも持ち歩いている手提げ鞄に手をつっこみ、中を弄びながら、ジッとただひたすら正面を見つめていた。
 人を待っているのだ。といっても、単なる待ち合わせではない。それほど平和でも平穏でも、また平素でもない。彼女の待つ相手は、そんな生易しいものではない。
 ギュッと、一姫はおもむろに左手を握りこむ。――黒くて綺麗にフィットする手袋がつけられた、指が異様に細長い手。それを握りこみ、そしてすぐに花を咲かせるように手のひらを開くと、今度は指を躍らせるように動かす。それはまるで、指がちゃんと動くかを確かめるような仕草であり、また自分の手足がしっかりと機能しているかを試すような仕草。
 その動作にたいした意味はない。いや、厳密に言うと、二ヶ月前の事故以来、実戦では使っていなかった技術の最終調整という意味もありはするのだが、それ以上に精神を落ち着ける意味合いの方が強かった。
「はは、馬鹿みたいですよね」
 やがて毒を吐き出すかのようにそう呟くと、一姫は動かしていた手をグッと力強く握りこんだ。
 弱気になっている自分を抑えつけるように。
 負気になっている自分を奮い立たすように。
 決めたのだ。後悔はしないということを。もうすべての準備は整ったというところで、迷うような仕草をするほうがおかしい。
 本来ならば、あの師匠代わりの青年の言うとおり、何もせず平穏を生きるのが一番なのだろう。実際、ここ二ヶ月の期間は楽しかった。前にいた澄百合学園――あの、首吊高校と揶揄されていた異常な空間にいたことが夢であるかのような、楽しい日々だった。少なくとも、ずっとそんな日々が続けばいいなと、偽りだらけでしかなかったはずの心の中の、本心がそう思っていた。
 ――だけど、体に染み込まれた毒は抜けることはない。
 首吊高校で叩き込まれた習性は、そう簡単に抜けるわけがなかった。
 いくら表面では日常を楽しんでいても、根底には既に血と肉に塗れたあの世界が染み付いている。どう足掻いても無駄な足掻きでしかない。殺戮者は、殺戮者でしか有り得ない。
「殺戮奇術集団、匂宮雑技段。殺戮奇術の匂宮兄妹」
 呟く言葉には、その幼い容姿からは見当もつかないような、冷たい響きが込められていた。
 それは、平穏な表の世界では決して見せることのない裏の顔。
 異形・異端・異能こそが支配する、暴力の世界に生きている者の表情。
 そして彼女の待ち人もまた、その世界の住人である。
 片時も逸らさぬように見つめていた一姫の視線の先に、一つの人影が映った。
 髪の長い少女だった。一姫ほどではないが、小柄な体つきをしている。つやのある美しい黒髪は、腰に届くほど長い。服装は少し大きめのTシャツ姿で、その袖からは当然のことながら両腕が伸びている。
 長い、本当に長い両腕が。
 髪の毛が長いのとはまた違う。長く、細長い、芸術品のような長さ。肩から、肘、手首、手のひら、そして指まで、すらりと一本筋が通った美しさ。容姿自体は異常ではないが、その腕に関しては異質以外の何物でもなかった。
「来ましたね」
 彼女の登場に、一姫は静かに押し殺した声で言う。
 それに対して相手は――その可愛らしい少女の容貌をにやりとゆがめる。
「ぎゃははははっ! 『来ましたね』か。ぎゃは。ああ、お望みどおり来てやったよ」
 それは彼女の――いや、《彼》の本来のしゃべり方ではあるが、しかしそこには僅かに無理をしているような節があった。
 しかしそれでも彼――匂宮出夢は、その無理を帳消しにするように派手に笑う。
「ぎゃはは、ぎゃははは。なーんだなんだなんですかぁ? そんな怖い顔しちゃってよ。ここはそんな辛気臭い顔する場面じゃないだろ? 敵と敵が向き合ってんだから、もっとテンションあげろよ」
「…………」
 ひたすら盛り上がろうとする出夢に対して、一姫は緊張に染まった表情を緩めようともしない。歩み寄る心積もりは、始めからまったくない。
 ただ、ひとしきり騒いだ出夢に対して、静かに問う。
「殺戮奇術の匂宮兄妹。その兄、《人喰い(マンイーター)》の出夢でいいですよね」
「へぇ、僕のこと知ってるんだ。めっずらしぃ! こう見えても僕の情報はなかなか外に漏れていないと思っていたんだけどな。ぎゃはは。誰に聞いたか知らないが、つーことはアンタもやっぱそこそこできるんだろう? 紫木、っつったっけ」
「まったく、どうして《匂宮》なんかがこんなところにいるんですか。未開不能です。姫ちゃん淫乱しちゃったじゃないですか」
「ぎゃはは、なんだなんだ? 僕をネタによがっちまったのかよアンタ。ひゃっほう、そりゃあ男冥利につきるってもんだぜ」
「ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ、ほんっとうに五月病ですね。少しは黙ったほうが高嶺の花なのが分からないのですか」
「ぎゃははははっ! あいにく僕ちゃんのこのテンションは生まれつきなんでね。それについてはまあ、スルーしてもらう方向でここは一つお願いします。ってな、ぎゃはは」
 一姫の言葉の間違いにも何処吹く風で、出夢はいつものように笑い続ける。
 というよりも、気づいていないのかもしれない。
 …………
 どちらにしろ、両方とも知能指数はそれほど高くないのだ。
「あーもう鬱々しいですね! その粘着テープな笑い声止めろって言ってるんだ不潔なんです! 吐き気覚えるんで、その笑い顔と一緒にどっか遠くに行ってくれませんか」
「ワォ! すげー暴虐な言い分だなおい。ぎゃはは。だからそれについてはさっきも言っただろ。僕ァ仕事できてるんだから、簡単にここを離れることはできないんだって」
「仕事って《匂宮》の仕事ですよね」ギッと、瞬間的に一姫の眼の色が変わる。「『殺し』の仕事。《殺し名》の中でも、《殺し屋》の匂宮。そんな仕事を黙ってみていることが出来るわけがないじゃないですか」
「それをしてくれってさっきから言ってるんだけどなぁ。別にアンタが気にしなくても、僕はおにーさんとの約束があるから、あの男がいる目の前で『殺し』はやらねぇよ。ほら、お前が師匠って呼んでるおにーさん。別にあの人がターゲットってわけでもねぇし、お前が気にすることは一つもねぇんだぜ?」
「そんな言い訳は何度も聞き飽きました。誰が信じますか、そんな約束。誰が信じられますか、《殺し名》の約束なんか。信じる者は儲かるって言いますけど、『この世界』で信じた人間は損しかしません」
「まあ、その意見にゃ賛成だけどさー。僕としては信じて欲しいわけよ。出来ればあんま荒事起こしたくねぇし。ほら、実を言うと僕ってば、あのおにーさんにことかなり気に入っちゃってるわけよ。ぎゃはは、こういうの結構珍しいんだぜ。まあ、妹がお世話になったってのもあるけどさ」
 だからよ、と出夢はその笑みでゆがんだ表情を少し寂しげに染めながら、まるで懇願するように言う。
「出来りゃあのおにーさんとの約束は破りたくねぇ。この気持ちには嘘偽りはないんだ。それだけでも信じちゃくんねぇか?」
 その言葉の真摯さを感じ取ったのか。
 一姫は、値踏みするような視線こそ変えなかったが、意表をつかれたように沈黙する。
 出夢が嘘をついているようには見えなかった。見るからに嘘をつくのが下手そうな人物である。裏表がない性格、というのが正に当て嵌まるほど、彼の精神はまっさらだった。
 強さにのみ特化した存在。それゆえに、嘘や策謀などの『弱さ』は、全て妹である理澄が請け負っている。出夢が担うのは『強さ』のみ。隠すことも誤魔化すこともない、愚直で直線的な性格。『弱さ』という概念が入り込むことのない絶対的なもの。それこそが、匂宮出夢のアイデンティティでもあるのだから。
 そんな彼だからこそ、その言葉は信憑性という意味ではかなり高いだろう。
 その上で、どこまで彼の言葉を信じるべきか。
 いや――一姫に、そんな考えはそもそもなかった。
「はん。戯言ですよ」
 やがて、一姫は固く結んでいた唇を、とある人物の口癖をまねすることによって開く。
 全てを切り捨てるようなその一言は、出夢の表情を凍りつかせる。
 その様子を冷めた眼差しで眺めながら、一姫は静かに言葉を発する。
「信じてくれ? ふざけるのは寝ている間だけにしてください。暴力の世界の何処に、相手の言うことを無条件に信じる阿呆がいますか。そんなのは、人類最強しかやることはできないんですよ。『信じる』なんて『弱さ』は、その『弱さ』を肯定しながらも、それをプラスマイナスゼロに出来るくらいの『強さ』を持つ人間じゃないとできないんです。『信じる』ってことは、『裏切られる』ってことなんですよ」
 そんな覚悟が出来るほど、私は強くはないし、弱さも持ってない。
 そう、一姫は呟いた。
「あなたが正直だろうが嘘つきだろうが関係ない。問題なのは、あなたが『殺し屋』で姫ちゃんは『狂戦士』だという事実だけです」
 歩み寄る余地など、始めからない。
 もし話を聞いてもらいたければ、無理やり聞かせればいいんだ。
 なにせ、この世界は――暴力によって、融通が聞くのだから。
「は、はは……」
 乾いた笑い声が、出夢の口から漏れる。
 そのあまりの弱々しさに彼自身驚いたのか、出夢はすぐに表情を引き締め、そして今度は高らかに笑う。
「ぎゃははははははははっ!」
 大きく、気高く、ほえるように。
 自分を高めるように、大げさに。
 彼はひたすら笑い声と言う名の咆哮を上げる。
「ぎゃは、ぎゃはは。そりゃそうだよな。はん、僕としたことが、ちょっとセンチメンタル入っちまったぜ。いけねぇいけねぇ。うっかり頼み事なんかしちまった。そういう弱さは四年前に捨てたはずなんだがな」
 少し嫌そうに顔を歪めながら、出夢は言う。
「いいぜ。だったら『僕たち』のやり方で話をしよう。ぎゃはは! ああ、いいさ。殺戮は一時間だ。しっかりかっきりやってやる。その方が、よっぽど僕らしい」
 ぐっと、上体を低くし、出夢は両腕を軽く広げる。
 長い――異様で異質で異端なまでに長い両手が、すらりと怪しく伸びる。
 それに対して、一姫は。
 手提げ鞄を地面に置き、手袋を嵌めた手を胸の前に持ってきて、静かに言う。
「こちらの用件は一つです。あなたが負けたら、即刻この建物から出て行ってください」
「へぇ。で、僕が勝ったら?」
「考える必要はありません」
 だって――
 あなたの意図など、すぐに切れるのだから。
 そして、戦いの火蓋は切って落とされた。

◇◇◇

 先に動いたのは出夢だった。
 屈めた体を一気に伸ばし、一気に一姫との距離を縮めようとする。
 しかし、それとほぼ同時に、一姫の指が、まるでピアノを演奏するかのように振るわれる。

 ひうんひうんひうんひうんひうんっ!

 それとともに、辺りの空気を切り裂く鋭い音が響く。
「っ!?」
 一姫に向かって弾丸の如く突っ込んでいた出夢は、動き出した瞬間に何かを察する。
 そして、その音が聞こえるか聞こえないかというその瞬間、ほとんど反射的に、突撃する方向とは真反対の、背後へと跳んだ。
 次に、ひうん、という音が響き――
 すぱり、と、
 紙一重で避けた結果、Tシャツの胸の部分が軽く切り裂かれる。
「なっ」
 無意識のうちに回避行動をとっていた自分にも驚いたが、それ以上に、出夢はその切られたTシャツを見て驚く。
 すぐに一姫の方へ視線を向ける出夢。
 その様子を、彼女は、うすく口の端に笑みを浮かべながら見ていた。
「《曲絃糸》遣い、か。テメェ、随分と面白いモン持ってんじゃねぇか」
 曲絃糸。
 糸を使い、拘束から切断までこなす技術。その糸は日本刀の如く鋭く、その糸は太い縄のように頑強。《曲絃師》の扱う《曲絃糸》は、全てを可能とする。
「はは! なかなか楽しませてくれそうじゃねぇか!」
 ぎゃはは、と笑いながら、出夢は回り込むように横に跳ぶ。
 その出夢に対して、一姫は彼の動きを目で追いながら、何かを操るように指を躍らせる。ひうん、ひうん、という空を裂く音があたりに響く。おそらく糸の調節をしているのだろう。
 曲絃糸というのは、要するに糸を相手に引っ掛けてどうにかする技術だ。本来、こうした直接対決にはあまり向かない。どちらかといえば暗殺技術に近いものである。
 出夢も、そんなに遭遇率があるわけではないが、それでも仕事で糸遣いと直面した経験がないわけではない。一番記憶に残るのは五年前。雀の竹取山で、結界の如く山中に張り巡らされた糸。厄介というほどではなかったが、それでも面倒だとは思った。
 あの時は、おそらく数十人単位で山中に糸を張り巡らせていたのだろうが、その糸をすべて自分に向けられて――その上で、もし拘束ではなく殺人を目的としてあの技術を使われたら、やられはしないだろうが苦戦くらいはするだろうと思っていた。
 しかし、それでも数十人単位で向かわれた場合である。たった一人の糸遣いに苦戦することなどないと、出夢は思っていた。
 ――そう、まさか苦戦するなどとは思っていなかったのだ。
(なんだっつーんだ、あいつ!?)
 出夢が避けるスピードに追いついてくる糸を尻目に、彼は苦笑いを浮かべながら毒づく。
 気を抜けば、一瞬で足を取られる。かといって足元ばかりを気にしていれば、今度は長い腕を狙ってくる。そして、巻きついてくる糸にばかりに反応していると、今度はまっすぐ首を刈り取らんばかりに糸が迫る。
 一瞬でも気を抜けば、殺される。
(プロの、それも上位のプレイヤーと遜色ねぇじゃねぇかよ)
 紫木一姫という名前は別に聞いたことがなかったので、出夢は完全に油断していた。もしかしたら自分が知らないだけで、何か名の通った識別名でもあるのかもしれない。そう思いながら、出夢は中庭の中を縦横無尽に駆け巡る。
 一姫は始めにいた位置からほとんど動いていない。出夢が回り込むたびに向きを変えたりはするが、基本的にはその場に留まったままだ。
 指だけが、せわしなく動いている。
 くいっと、
 糸を掛け、
 ついっと、
 指が動き、
 糸が鳴き、
 空が裂け、
 出夢へと、その牙を突き立てる――ッ!
「させるかよ!」
 巻きついてくる糸を意識しつつ、出夢は完全に巻きつかれる前にその間から抜ける。
 まるで、糸の動きが見えているかのように動く出夢に対して、一姫は怪訝そうな顔をする。
 それもそのはず、実際、出夢には糸のありかが見えていた。
(つっても、目の前にあるのを把握するので精一杯だけどな)
 心の中で愚痴りながら、出夢は糸の張り方が甘い方向へとすぐに移動する。見たところ、中庭中に糸が張り巡らされている事実は変わらないが、それでもまだ、密度が薄いところがところどころにあるのだ。
 五年前の雀の竹取山でのとき。出夢は、山中に張り巡らされた曲絃糸の間を完全に見切って山中に侵入していた。目を凝らせば、見えないことはないのだ。さすがに今は全力で動き続けているため、その時のように全部を抜けることはできないのだが、それでも決定打を決めにくいことには変わらない。
 もちろんこのようなことは、匂宮出夢の特異な身体能力と異常な観察眼があってこその芸当なのだが。
「ぎゃはは、すげぇぜこら。ワォ! アンタ一体何モンだよ!」
「殺し名に名乗るような名前はありませんよ、《匂宮》!」
 くい、つい、つぅ、っと。
 しゅっ、ふ、ひうん、と。
 糸を撒き糸を引き、糸を絡め糸を掛ける。
 すべての動作が計算しつくされ、繋げられている。無造作に撒き散らかされた糸を所定の位置に配置するまでの間に、二度ほど出夢に対して攻撃を仕掛けてきている。出夢が分かる範囲でのことであるが、もしかしたらもっと多くの工程を一度に行っている可能性がある。
 なんて、異端。
 これほどのプレイヤーは、出夢でもそう出会ったことがなかった。いや、単純な戦闘技術としてならば、暴力の世界に限っていえばそれほど特出したものでもない。しかし、問題なのは彼女の扱う《曲絃糸》という技術である。
 これほど、『戦闘』に特化した糸遣いを、出夢は知らない。
 そもそも《曲絃糸》というのは直接対決には向かない技術のはずなのである。それをこうも前面に持ち出して、それでもなお出夢と互角に戦っているということが、恐ろしい。
(さて、どうしたもんか)
 ひうんひうんと糸が空を裂く音が聞こえるのを耳元に感じつつ、出夢は考える。
 正直、このままではまずい。出夢が移動途中に切っている糸よりも、一姫が撒いている糸の方が、量が多い。少しずつ、中庭には一姫の武器がばら撒かれているのである。
 本来ならば、《曲絃糸》という技術は何かに引っ掛けることによって場にばら撒いているのだから、その引っ掛けるべきものを破壊すればいい。この中庭で言うのなら、一番は周りに生えている木だろう。数は多くないが、それでも枝の数などを考えたらかなり有用しているだろう。その木を倒したりなどすれば、相手の攻撃の幅は狭まるだろう。
 しかし、その余裕がない。
 はっきり言って、出夢に余裕はないのだった。確かに、今にも殺されるというところまで追い詰められているわけではない。だが、そうだからと言って別のことをやることができるほどの余裕はないのだった。
 はっきり言って、苦戦していた。
 強さに特化しているはずの匂宮出夢は、ノーマークだった敵に苦戦しているのだった。
「っち、冗談じゃねぇぞ!」
 もともと、沸点が低いのである。
 始めこそ、その追いかけっこを楽しんでいたのだが、だんだん余裕がなくなるにつれて、出夢はイライラとしてきた。
 そろそろ潮時かもしれない。
 イライラした心情とは裏腹に冷静な精神で、出夢はそう判断した。
 走りながら、出夢はそれとなく走行スピードを落とす。
 それを好機と見たのか、案の定、すぐに体には糸が絡まり始める。
 そして出夢が完全に立ち止まった頃には、全身に、切っても切れない繋がりがいくつも出来た。
「終わりです!」
 決まったとでも言うように、一姫は宣言する。
「あなたの意図は、ここで――」
「切れるかよ、バァカ!」
 一姫が指をついっと落とすよりも早く、
 出夢は、その体をすばやく動かした。
 ――自分に絡まっている糸は、元をたどれば全て、一姫の指から伸びているのである。
 つまり、一姫がチェックを掛ける瞬間、まさにその時は、出夢と一姫は『糸』という繋がりで切っても切れない関係となっているのだ。
 それが意味することは――出夢が動けば、その繋がった糸の先にいる一姫も、引っ張られる。
 奇しくもその対策は、二ヶ月前に、あの人類最強・哀川潤が行ったものと同じであった。
 力の上では圧倒的に出夢が上である。もしこれが決まれば、一姫の小柄な体など、簡単に引っ張られてしまうだろう。
 だからこそ、出夢は自分の体が裂かれる前に動けた瞬間、勝ったと真剣に思った。

 ぶつん、と

 音が聞こえたわけではないが、糸が切れる感覚があった。
「な、に――」
 驚くのも数瞬。
 出夢の体は、あらかじめ予想していた抵抗が突然なくなったために、バランスを崩し軽く倒れこむ。
 糸が切れた、だと?
 驚きは疑惑に変わり、そして次に困惑を呼ぶ。
 地面に受身を取って転がり、すぐに立ち上がると、出夢は真っ先に一姫を見た。
(まさか、あいつ――)
 ひうん、と。
 休む間もなく、また糸が振るわれる。
 容赦なく、立ち上がったばかりの出夢の首に糸が巻き付こうと迫る。
「ちぃっ」
 ――想像以上だった。
 出夢は、十分一姫のことを評価していたつもりだった。
 しかし、過大評価と思っていたその評価ですら、実際は過小評価だったらしい。
 再度逃げに徹することになりながら、出夢は後悔を始めた。
(チクショウ、なんだよあの娘。このままじゃ――)

 ――本気を出さざるを得ないじゃないか。

 出夢は、まだ、約束を守ろうと考えていたのだ。
 あの冴えない青年の前では、人は殺さないこと。
 それは、殺し屋である自分にとっては馬鹿馬鹿しい約束であったかもしれないが、しかしできる限り守りたいと思っていた約束だった。
 でも、このままじゃ、自分がやられてしまう。
「……っざっけんな」
 吐き出すように、出夢は言葉を出す。
 その瞬間、彼は割り切ることに決めた。
 できる限り近寄らないようにしていた、一姫の周辺の方へと意識を向ける。
 一姫の周りには、糸の結界が張ってあった。それこそ、縦横無尽完全無欠に、糸で覆いつくされている。しかし、その中でも僅かながら、人一人が侵入できそうなほどの穴が数箇所あるところが小憎らしい。
 誘っているのは分かる。しかし――
 出夢は、方向を転換する。
 まっすぐ、まるで突貫するかの如く一姫へと足を向ける。
 すべてに決着をつけるため、敵の本陣へと突撃を試みる。
「ぎゃはははははっ!」
 その笑いは、傍から見れば自暴自棄にも等しい笑いだった。

◆◆◆

 二ヶ月前――
 紫木一姫の《曲絃糸》は、とある赤色によって完膚なきまでに大敗していた。
 人類最強の請負人。哀川潤。
 彼女に指摘されて初めて知った、自身の弱点。その事件のことを聞かれても、当の一姫は記憶が曖昧だと嘯くのだが、その点だけはしっかりと心に刻んでいた。
 そして、対策をとった。
 匂宮出夢。
 やはり彼も、哀川潤と同様の対策を取ってきた。
 その時に一姫が行ったのは、なんてことはない。ただ単に、出夢との繋がりである糸を、迷いも無く切っただけのことなのだ。
 自身の指よりも早く動く相手がいるのならば、それに逆らわず、糸を切ればいい。
 立ち止まった敵を輪切りにするのだけが、《曲絃師》の戦い方ではないのだから。
「――向かってきますか」
 まるですべての思考を放棄して特攻を仕掛けてきたかのように、出夢は一直線に、今まで近寄ることのなかった一姫の元へと走りよる。
 この判断を、どう見るべきか。
 何か手があるのか。もしくは、本当に堪えきれなくなっての特攻なのか。
 何はともあれ、すぐに対応しなければまずい。
 つい、っと。
 一姫は自身の周りに張っていた糸を、すべて出夢の方へと集中させる。
 出夢が、その長い腕を孔雀のように広げ、右腕を思いっきり突きつけてくる。
 あまりにも単純。これでは狙ってくれと言っているようなものだ。一姫は迷いもなく、すぐに突きつけられた右腕へと糸を絡め始める。――が、
「甘ぇよ、バァカ」
 勢いのままつっこんでいたはずの出夢は、あろうことかその勢いを振り切るかのように、上体を反転させ、その右腕を絡まろうとしていた糸から引き抜いた。
「な、――」
 なんて、化物。
 物理法則を無視したかのようなその動きに、もはや呆れるしかない。
 そして、出夢の動作はまだ繋がっていた。
 体を反転させたその反動を利用して、彼は、今度は左手でもって、先ほど右手を絡め取るために集中させた糸の束を、残らず平手で引きちぎったのだ。
 大量の糸が、無意味になる。
 大量の意図が、無駄になる。
 そして正面に限って言えば、今の一姫は、無防備にも等しい――っ!
 まずい、と構えようとしたところで、聞きなれた笑い声が返ってきた。
「ぎゃははっ! なあ、紫木」
 匂宮出夢は――
 敵が無防備になったにもかかわらず、追撃をせずに数歩後ろに下がる。
「な、どうして」
「もう一度聞くけどよ、まだ、僕の話聞く気にはなれねぇか?」
 そして、そんな世迷いごとを言い出した。
「なにを、言って――」
「確かにこのままバトってもいいけどさ。やっぱ僕としては心残りなわけよね。あのおにーさんとの約束が。だからもう一度確認しときたいんだわ。――僕の用件を聞いちゃくれねぇか?」
 今更そんな話を蒸し返してきた出夢に――
 一姫の頭の中は、呆れを通り越して怒りに染まった。
「…………ふ」
 かぁっと頭に血が上る。
 そして癇癪でも起こしたかのように、一姫は叫んでいた。
「ふ、――ふざけるなです!」
 怒鳴りながら、一姫は指をふるって辺りの糸をかき集める。
 それは無造作な動きで、とても雑な操作だった。感情のままに操られた糸は、ひゅんひゅんと鳴りながら彼女の周りを暴れ狂う。
 この期に及んで! こんな、もう殺し合いまで始めている中であるのに!

 僕の話を聞け、だと?

 ――ふざけるな。
「うるさい、うるさい、うるさい、うるさい!」
 何が気に障ったのかは、一姫本人も分からなかった。
 ただ、無性に腹が立った。戦いに水を差されたことがそんなに嫌だったのか。本気になっていたところを馬鹿にされたような気がしてイラついたのか。
 分からない。
 分からないまま、暴走する。
「殺し名なら、殺し名らしく振舞え! それでもあなたは《匂宮》ですか! 序列一位の名が泣きますよ! そんな、敵に命乞いをするような真似をして! そんなに、そんなに戦いたくないですか! そんなに――」

「――そんなに、師匠との約束を守りたいんですか!?」

 その言葉は、思わず出たものだった。
 別に、考えて至った結論なんかじゃない。ただ、勢いに任せて言っていたら、いつの間にか口からこぼれていたのだ。
 しかし、過程はどうであれ、その言葉は口から出てしまった。
 ――そして一姫は、それが答えであるということが分かってしまった。
 そのことに気づいて、一姫はハッと我に返る。
 我に返って――言いようのない思いに襲われ、呆然とする。
 ひゅんひゅんと絶えず鳴り響いていた糸の音が突然止み、僅かに静寂が生まれる。
 やたら滅多らに糸を振り回していたからだろう。出夢は、先ほどよりも少し遠くに避難していた。その場所から、まっすぐに一姫の方を見つめている。
 彼との視線が合った瞬間、彼が口を開いた。
「そう、か」
 その後で、彼が浮かべた表情はなんだろうか。
 喜びから来る笑みなのか、それとも悲しみから来る笑みなのか。にやりと、彼はその相貌をゆがめると、一言こう言い放った。
「だったら、手加減は出来ねェぞ」
 ぐっと、状態をかがめ、両腕を大きく開く独特の構えを取る。
 その言葉には、『殺し屋』らしい凄みがあった。
 完全に、出夢が敵となった。
 これまで積極的に攻めてこなかったのは、やはりどこかで、あの青年との約束があったからだろう。そのことは一姫も分かっていた。いや、それを分かっていたからこそ、彼女は小賢しくも執拗に攻め立てたのだ。
 しかし、その緩衝材も今はない。
 これから、《人喰い(マンイーター)》の出夢は、本気を出す。
 その事実に直面して、一姫はとらえどころのない感情を端的に表す言葉に出会う。

 ――自分は、一体何をしているんだ。

 くらくらと頭が揺れている。
 思考はのぼせたように曖昧。もはや正常な考えは期待できない。自分が何をやっているかだって? それをわかる術は、もうない。
 そんな異常な状態で、思考による行動はもう絶望的だった。
 匂宮出夢が迫ってくる。
 彼の目にあるのは、敵意、殺気、覇気。
 彼は、一姫のすぐ近くにまで迫ると、大きく跳躍し、ぐっと右腕を背後に向けて、体を思いっきり反らせる。
「だらああああああああああ!」
 雄たけびが響き渡る。
 振り下ろされるは、匂宮雑技団の伝家の宝刀。
 通常の状態でも避けるのは難しい。まして、今の一姫は自室呆然としている状態だ。
 ――だが、本能は立ち止まることを許さない。
 澄百合学園で培われた、《狂戦士(ベルセルク)》としての本能。
 本当の師匠、市井遊馬の教えによって作り上げた、《病蜘蛛(ジグザク)》としての本能。
 その二つの経験が、一姫の体を強制的に動かす。
 その結果。
 出夢が、振り上げた平手をおもいっきり振り下ろす。僅かに外に逸らし気味だったが、それでも射程にはしっかりと入っている。
 振り下ろされる前に、一姫の本能は全力で回避行動を取っていた。
 が、左手が僅かに遅れる。
 糸を上手く操作しきれず、絡まってしまい、引き寄せられなかったのだ。
 その左手に、出夢の平手が当たる。

 ――次の瞬間起こったのは、爆発だった。

 比喩でも冗談でもなく、それは文字通り爆発。
 命中した左手は完膚なきまでに爆砕。血と肉が砕け散り、骨は粉みじんになる。しかし、左手だけで蹂躙は収まらず、圧倒的な暴力は二の腕を巻き込みその脅威を撒き散らす。
 肉が散る前に神経が砕かれる。骨が折れる前に砕かれる。ただ平手で叩かれただけで、一姫の左腕はその原型を失う。
 そうして、紫木一姫の左腕は食われた。

◇◇◇

 匂宮出夢は、強さのみに特化した人格である。
 殺戮奇術の匂宮兄妹。殺し屋の出夢は強さのみの存在。名探偵の理澄は弱さのみの存在。一人で二人、二人で一人の匂宮兄妹。
 その出夢の強さは、狐面の男に言わせるならば、戦闘面においてのみならば彼の人類最強にも匹敵するというほどである。事実、この時点での匂宮出夢は、こと戦いに関してならば最強に最も近い位置にいた。
 しかし、そんな彼でも、圧倒的なまでの敗北というものを経験したことはある。
 圧倒的なはずの強さが、揺らいだ瞬間が確かに存在する。
 例えば、四年前。
 直木飛縁魔という名の、可能性を大事にする拳士。
 当時の出夢は彼と直接対決をし、そして、一撃の下に地面に身を伏せさせられた。
 それは、完膚なきまでの完敗。
 死ななかったことが僥倖といえるほどの敗北であった。
 負けた理由は分かっている。――と言うよりも、その負けた理由がなければ、今ここに出夢は生きていないだろう。
 当時の出夢は、非常に危ういバランスで成り立っていた。
 いや、というよりも、『強さ』と『弱さ』を完全に切り分けているはずの『匂宮兄妹』という存在そのものが揺らいでいた、といったほうがいいかもしれない。
『強さ』に特化したはずの出夢に『弱さ』が混ざり、
『弱さ』に特化したはずの理澄に『強さ』が混ざった。
 結果、『匂宮出夢』という可能性は揺らぎを見せてしまい、隙を作ることとなった。
 その不確定要素のおかげで今出夢は生き残っているのだが、しかし当時のその状態が危険以外の何物でもないことは、誰に言われるまでもなく分かっていた。
 そう、分かっていたのだ。
 それなのに、その言われずとも分かることを、ある男にはっきりと突きつけられた。
 狐面の男。
 人類最悪の遊び人たる彼は、その名に恥じぬ最悪な感情とともに、出夢にその残酷な事実を突きつけたのだった。
 そして、出夢は変わった。
 いや、変わらざるをえなかったのだ。
 当時自身から進んで付きまとっていた零崎人識との絶縁。それとともに、『弱い』といわれる要素をすべて除き、廃し、理澄に任せた。そして自ら進んで、理澄に必要のない『強さ』を背負っていった。
 その結果が、今の匂宮出夢である。
 そんな彼が、一見弱さにも見える『約束を守る』という行為にどうして執着するのか。
 その理由については、出夢は自分でしっかりと自覚していた。
 思い出すのは、零崎人識との関係。あの決定的な決別を行う前の、彼との蜜月を。
 あのときの関係は弱さ以外の何物でもなかったが――しかし、だからこそ理澄には必要なことのはずなのだ。
 友達。
 友達が本当に必要なのは、理澄の方なのだ。
 四年前のあの事件で一番身にしみて感じたのは、その事実だった。
 だから――理澄と平然と付き合うあの冴えない青年は、大切で貴重な存在だった。
 友達、と言えるかどうかはまだ分からない。ただその可能性があるだけだ。でも、その可能性が貴重なのだ。今まで現れることのなかった可能性。その可能性を守るためなら、出夢はなんだってする。
 ――そう、なんであっても。


「――そんなに、師匠との約束を守りたいんですか!?」
 一姫がそう叫ぶ。
 その言葉に、出夢は答えない。
 ただ、納得したように、「そうか」と呟き、
「だったら、手加減は出来ねェぞ」
 と、構えを取って敵対の意思を見せる。
 まだ本気ではなかった。殺戮は一時間という取り決めに従って戦っていたはずなのに、それでも傷つけないよう手加減をしていた。手段を選んで戦おうとしていた。――でも、その手加減をすべて消す。
 約束を守るためなら、なんだってしてやる。
 あの青年の前で殺しをやらないという約束。それを守るためには、目の前の少女は最大の壁となっている。
 だったら、無傷とは言わない。
 ただ抵抗できないレベルにまでダメージを与えて、その上で降参させてやる。
 そう誓うと、出夢は一姫の元へ走りこみ、大きく跳躍する。
 右腕を掲げ、腕全体をぐっと後ろに反らし、空中でエビ反りの状態となる。
 一姫は、さっきの言葉から何故か呆然としたようにたたずんでいる。
 が、反射的かどうか分からないが、出夢の攻撃に対し、すばやく回避行動を取った。
(そうだ! それでいい!)
 ひやひやしたが、ちゃんと一姫は攻撃を避けようとしてくれた。
 あとは、出夢がコントロールしなければならない。
「だらあああああああああああ!」
 雄たけびをあげる。
 それとともに、振り下ろされる右の平手。
 しかし、それはまっすぐではなく、僅かに外向きに振り下ろされていた――

《一喰い(イーティングワン)》

 すべてを蹂躙する、牙の如き平手が炸裂する。
 一姫の本能的な回避行動と、出夢の狙いを外す努力。
 二つのおかげで、本来手加減が不可能だったはずの攻撃は、ピンポイントで出夢の狙った位置に命中する。――すなわち、紫木一姫の左手に。
 その効果は想像を絶するものであった。血肉が舞い、左腕が肘の部分から文字通り消滅する。一姫の左手はもう完全に食い破られていた。
 その様子に、叫ぶよりもまず呆気に取られたように、一姫は目を丸くする。
 出夢は、無理やりポイントをずらそうと体を捻じったためにバランスを崩し、軽く地面に激突する。
 起き上がった出夢が見たのは、呆然となくなった左手を見つめている一姫だった。
 一姫は、悲鳴すら出さず、ただひたすら驚いたように左の肘の傷跡を見つめていた。肉のピンク色の繊維や、真っ赤な血が見える切断面。絶えずどくどくと流れ出る血も気にせず、一姫はまるで他人事であるかのようにその場にへたり込んでいた。
 痛みは――ないのだろう。それに関しては出夢の方が分かる。《一喰い(イーティングワン)》は、痛みが伝達するよりも先に神経系を破壊する。傷口の周りの神経もずたずたにされているため、おそらく痛みはほとんど感じないはずである。
 だから、痛みがないからこそ、一姫は状況が理解できず呆然としているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、ふと、一姫が唐突に口を開いた。
「……なぁんだ」
 それは、酷く冷めた声だった。
 まるで期待していたことが裏切られたような、そんな、失望にも似た色が見える。
 その声に、出夢は柄にもなくゾッとしてしまう。
「やっぱりあなたも、《殺し名》なんですね」
 突き放すように、突き落とすように、一姫は言葉を続ける。
「そう、ですよね。――あはは、おかしいと思ったんです。こっち側の住人が、暴力を振るわないなんて事があるわけがないんです。そんなこと、あってたまるもんですか。あはは、良かった。あなたも、ちゃんと暴力を振るってきた」
 あはは、あはは、と狂ったように笑い続けつつ、一姫は言う。
「所詮師匠との約束なんてその程度なんですよね。――だったら、すっきりです」
「なっ」
 一姫の落ち着いた冷たいセリフに、出夢は戦慄する。
 違う。
 それは、誤解だ。
 そう、出夢は言葉を繕おうとするが――
「――――っ!」
 言葉に、詰まってしまう。
 開いた口からは声が出ない。
 言いたいのに、誤解だといいたいのに、喉が張り付いてしまったかのように声が出ない。
 ――なぜなら、それは『弱さ』だから。
 たかが『言い訳をする』という程度のことであっても、それが自己保身のためという『弱い』行為である以上、『強さ』に縛られている出夢は行うことが出来ない。
 その事実に直面し、出夢は愕然とする。
 しかし、それは分かりきっていたことのはずだ。四年前のことを持ち出すまでもなく、匂宮出夢という人格の《存在理由(アイデンティティ)》は、『強さ』にしかないということは、前提条件なのだから。
 カッと、一姫の瞳が大きく開かれた。
 次の瞬間、今までほとんど動こうとしなかった一姫は、突然動き始めた。
 それも、下がるのではなく、逆に出夢の方に突撃してきたのだ。
「っ!?」
 思いもしなかった行動に、混乱しきった出夢の頭は理解が追いつかない。
 その間にも、一姫は膝をついている出夢の目の前にたどり着く。
 そして、彼女は残された右の手を出夢に突きつけてくる。
 本来ならば、まったく恐れるものではない。出夢と一姫の間には身体能力の差がありすぎるのだから、むしろ突撃してきた一姫の方が危険のはずだ。
 しかし。
 突撃してきた一姫の形相を見た瞬間、

 出夢は思わず回避行動を取っていた。

 バックステップで下がった出夢が先ほどまでいた位置で、一姫の右腕は大きく空振りし、ひうんひうんという糸の虚しい音が響く。
 今のは、逃げだった。
 無意識に行われた回避行動。それは、戦いの一番初めに行ったものと同じであるが、その二つには決定的な違いがある。
 初めは《曲絃糸》という未知の技術に対する対応だったが、今回は純粋な畏怖からだった。
 恐怖、というほど強いわけではない。
 だが、さっき出夢は確実に、向かってくる一姫に対して逃げという手段をとっていた。
 逃げという、『弱さ』を出していた。
「あ、あぁ」
 困惑は益々深まる。
 何がどうなっているのか。
 何でこうなっているのか。
 困惑は更なる困惑を呼び、混乱は尚更極まる。
『弱さ』と『強さ』が交わる、あの奇妙な感覚が蘇る。
 なんで、どうして、何故?
 分からない、分からない、分からない。
 圧倒的に有利にいたはずの出夢のメンタルは、たった一言によって完全に瓦解してしまった。
 ひうんひうんひうんひうんひうん。
 もう聞きなれてしまった糸の音が、呆然としている出夢の元に迫る。
 立ち尽くしている暇はない。
 ショックに痺れてしまっている頭を叱咤し、出夢は必死でその攻撃を避ける。
 それに対して一姫は、先ほどまでの戦い方からは想像もできない行動に出る。――すなわち、積極的に前に出てきたのだ。
 その小柄な体を乱暴に動かし、
 突撃するようにしながら、右手をせわしなく動かして糸による攻撃をしてくる。
 驚くべきことに、左腕があったときよりもその速度は速くなっている。次から次へと糸が空を舞い、一姫は危険も顧みず、自らその中を駆け抜ける。
 出夢も無傷では済んでいない。完全に避け切れなかったために、体中に浅いながらも切り傷が生まれている。と言っても、そこはさすが殺し名の第一位。まともな思考が働かない状態の中、本能だけで荒れ狂う糸の嵐の中を動いていた。
 しかし、避けながらも出夢の混乱は極まるばかり。
 その原因は、一姫にある。
 紫木一姫。
 彼女の戦闘スタイルは、明らかに中・遠距離であり、決して近接戦闘ではないはずだ。それなのに、今の彼女は進んで前に出てきている。
 進んで前に出てきて――そして、直接出夢の首を刈り取らんばかりに、糸を振るってくる。
 その様子は、修羅の如き形相。
 可愛らしい少女の顔は憎悪に染まり、まるで出夢が最大の仇だとでも言うように迫り来る。指だけの小手先の攻撃ではなく、文字通り全身を使った《曲絃糸》は、彼女の意思を示し表すかのように激しく暴れ狂う。
 分からない。
 分かるわけがない。
 なにがどうして、こうなった? 自分は何を間違えた? どこで、何が、こういう状況を生んでしまったんだ?
(どうして僕は逃げてるんだ?)
 分からない、分からない。
(怯えているとでもいうのか?)
 極まった混乱は、やがて怒りへと移行する。
 追い詰められた精神は、間もなく激昂する。
(ふざけるな、ふざけるな、ふざけるなっ!)
 そして、すべてが吹っ切れる。
 ぷつりと、匂宮出夢の堪忍袋は、真っ二つに切れる。
「っざっけんじゃねぇぞこらぁっ!」
 許容量を越えた怒りの所為で、頭の中が真っ白になる。
 怒鳴り散らすと同時に、彼は自ら突撃しながら、両腕を広く広げる。
 辺りに張り巡らされた糸のことなど眼中にない。無理やり走ってぶち切っているため、腕には少なからず切り傷が出来る。むしろすっぱりと切れてしまわないことが僥倖であるのに、そんなことは気にせず出夢は走る。
 ただ一人。
 目標の人物向けて。
 そこに意味はなく、そこに意義はない。そこに意向はなく、そこに意図はない。そこに意思はなく、そこに意気はない。
 深い考えなどまったく存在しない。
 ただ、その怒りをぶつけるためだけに、目の前の少女へとその強靭を振るう。
「だらああああああああああああ」
「はあああああああああああああ」
 跳びあがり、怒号を上げながら、出夢は両の腕をぐっと後ろに反らす。
 同じように叫び声を上げながら、一姫はここ一番の仕掛けを作り出す。
 互いに手加減という考えはすでに消えている。
 互いにどうして戦っているかすら忘れている。
 ただ目の前の敵を倒すために。
 ただ目の前の敵を殺すために。
 人喰らいの大鎌と病蜘蛛の糸刃は激突する。

◆◆◆

 紫木一姫は恋をしていた。
 それは年相応のものであり、それでいて立場不相応のものだった。
 その相手は、決して出来た人間ではなかった。少なくとも、一姫が惚れる要素など何処にもないだろう。一姫のことなど路傍の石ころと同然に見ているような青年である。彼の言葉に親愛は感じるが、彼の言葉に信頼は感じられない。優しいくせに甘くない男。そんな彼は、他者への関心がかなり薄い。
 叶うはずのない恋。可能性はゼロに等しいどころか、ゼロでしかない。これまでその値に変動があった事はないし、これからもその可能性はないだろう。
 そもそも、どうして好きになってしまったのか。感情に気づいたのは七々見奈波という隣人に明言されてからだったが、感情自体はずっと前から会ったと思う。――きっかけと呼べるものもいくつもあった。特に出会うきっかけとなった六月の事件での顛末を考えると、それが理由でもいいのではないかと思えてしまう。
 しかし、違うのだ。
 そんな単純なことではないのだ。
 少なくとも、そんなに単純に答えることの出来る感情では決してない。危機的状況に立たされなければ恋は芽生えないわけではない。
 この二ヶ月の、平和な日常を思い出す。
 澄百合学園にいた頃からは考えもできないような生活。学校で出来た友達、骨董アパートの面々、そして面倒を見てくれるあの青年。そんな家族にも似た人々に囲まれた生活は、嘘と欺瞞にまみれていた一姫であっても、素直に幸せだといえる時間だった。
 だから、その時間は守りたい。
 その象徴であるあの青年を、守りたい。
 初めて好きになった彼を、守りたい――
 殺し屋・匂宮出夢。
 西東診療所で出会ったその存在を、一姫は瞬時に察した。
 彼女は自分と同じ側の人間である、と。
 それを見過ごすわけには行かなかった。
 そんな危険なものを、大切な彼の前でみすみす野放しにしているわけにはいかない――
 だから一姫は、《曲絃糸》を振るう。
 あの青年に禁止された行為を、あの青年の守るために行使する。
 左腕が吹っ飛んでもひるまない。体中が傷ついても関係ない。ただ、目の前のあの危険因子を排除する。彼のために、そして、自身の平和のために。


《人喰い》と《病蜘蛛》のぶつかり合いは、劇的だった。
 大きく腕を広げた出夢は、まるで抱擁するかのようにその腕を手前に振るう。
 糸を振るうのが間に合わない。今集まっている糸でも進行を中断するくらいのことはできるだろうが、この攻撃は止められない。
 そう判断するや否や、一姫は全力で腕を突き出した。
 その瞬間には、出夢の両腕はすぐそこまで迫っていた。

「《暴飲暴食》!」

 両側から挟みこむような平手打ち。
 先ほど一姫の左腕を喰らった《一喰い(イーティングワン)》の、両腕バージョン。
 それが、突き出した一姫の腕を喰らいつくす。
 右腕の先に当たった出夢の《暴飲暴食》は、先ほどの左手と同じように、衝撃が伝達して肘までの間の肉を木っ端微塵にする。文字通り喰らい付かれたように、右腕は粉微塵になって消滅。行き場を失った血液が、シャワーのように辺りに降り注ぐ。
 痛みよりも先に喪失感が一姫を襲う。右腕。右手。彼女の一番の武器である指。それらの感覚が一瞬にしてなくなり、あとには何も残らない。
 これで、一姫の取れる手段はほとんどなくなった。
 糸遣いが指をなくしてしまっては、何も出来ない。

 そう、できないはずなのだ。

 だからこそ、出夢は、思わず《暴飲暴食》を撃ってしまったことに驚きの表情を浮かべつつ、内心はほっとしているのだ。
 結果的には一姫の対抗手段を奪うという目的は果たせたのだ。両腕の破壊という、なんとも乱暴な方法であるが、確かにこれでは、糸遣いたる一姫は降参せざるを得ない。
 だがこれは、それがただの糸遣いであったなら、の話である。
 紫木一姫は違う。
 彼女は、そんなに簡単ではない。不幸なことにも、彼女は異常なまでの才能を持った、《曲絃師》であり、尚且つ、あの《ジグザグ》の弟子なのだ。
 そんな存在を、常識では過労などおこがましいことである。
 突き出した腕を粉々にされ――
 抵抗手段をすべて奪われたかのように見えた一姫は、
 そのまま体を前に進める。出夢は、《暴飲暴食》を撃ったことで加速したまま、一姫の隣を駆け抜けようとしている。そんな彼に向かって、自から向かっていく。

 ――その口に、一本の糸を噛み締めながら。

 一姫の意図することに、交差する段階になってやっと出夢は気づく。
 しかし遅い。
 もう既に、糸はかけ終えた。
 全力で突撃しきた出夢である。駆け抜けるスピードも速い。――そして、かけられた糸の角度は、口であわせたとは思えないほど正確。切断を行うのに適切な角度である。
 あとは、勝手に自滅すればいい。
「あなたの意図は、ここで切れます」
 最後に決めゼリフを吐きながら、
 一姫は、その場に倒れこんだ。

◇◇◇

 怒りに任せるままに放った攻撃は、運のいいことに一姫の右腕のみを破壊した。
 攻撃した後に我に返った出夢は、そのことにほっとする。
 その気の緩みが、一姫の策に気づくのを、ギリギリまで遅らせる。
 迫ってくる一姫の口元に、きらりと光る一本の線。
 その線は、綺麗に出夢の首筋に合わせられている。
 今更気づいてももう遅い。
 かけられた糸へと向けて、出夢は自ら突撃することしか出来ない。
(うそ、だろ……)
(こんなところで、僕は終わるのか?)
 時間がゆっくりと流れる。
 死の瞬間を前にして、出夢の意識は緩慢に動く。
 すべては弱さが原因だった。
 あの青年との約束を守ろうなどという弱さが、そもそもの原因だった。
(ふざけるな……っ)
 その事実に、出夢は悔しさを覚え震える。
(僕は、そんな理澄を守るための弱ささえ、持つことが許されないのか……っ!)
 分かっていたことだった。
 しかし、それでも期待していた自分がいた。
 この状況を招いたのはすべて、匂宮出夢の、消し去りきれなかった『弱さ』が原因である。
 そのことに、出夢は負け惜しみの叫び声を上げた。

 ――出夢兄貴。

 首に糸がかかり、皮膚の表面が裂けた。
 その瞬間、耳元で声が聞こえた。

(理、澄?)

 ――出夢兄貴の弱さは――

 意識の中で振り返ると、そこには理澄がいた。
 変わらない、屈託のない笑顔で、笑い続ける妹。
 彼女は、安心させるような微笑の中、言ってくる。

 ――出夢兄貴の弱さは、全部わたしが背負うから――

 優しく包み込まれるような、抱擁感。
 そして、浮遊感。
 無理やり引っ掴まれて、そのまま抜き出されるような感覚。
 それとともに、交差する理澄。

(理澄!)

 ――だから、出夢兄貴は、安心してて。

 叫ぶ声は届かない。
 手を伸ばしても、もう届かない。
 ただ、理澄の、最愛の妹の顔だけが、ずっと見えている。

(理澄! だめだ! 理澄!)
 まるで赤子が駄々をこねるように叫び続ける。
 しかし、その思いに反して出夢の意識はどんどん突き放されていく。
 見える。
 理澄の姿が見える。
 今にも首にかけられた糸に切り裂かれ、首と胴が切り離される理澄の姿が見える。

(りずむっ!)

 その一部始終を見ても、出夢にはただ彼女の名前を叫ぶことしか出来なかった。
 ――そして、匂宮出夢の意識は途切れる。

◆◆◆

 戦場となった中庭は血の海と化していた。歩けばぺちゃりと音がしそうなほど並々と血が流れている。
 その中で、紫木一姫は放心してへたり込んでいた。
 彼女の瞳は虚ろ。可愛らしい顔を呆けさせ、一姫はただただ、何かを失くしてしまったかのように空を見つめ続けていた。
 全てが終わった。
 危険因子は今一姫が排除した。これで安全である。少なくとも、この西東診療所の建物内において、あの青年を危険に晒す心配はない。
 ああ、そうだ。自分は成し遂げたのだ。《殺し名》の《匂宮》との戦闘に勝ったのだ。
 一姫は傍らに倒れているものに視線を移す。首と胴が切り離された、少女の死体。切断面はまるで鋭い刃物で切られたかのように滑らか。
 匂宮出夢。
 あるいは、匂宮理澄。
 匂宮兄妹の死体。
 壮絶な戦闘の果てに得た、たった一つの成果。
 ――その代償は多大であったけれど。
 一姫はだらりとたれている自分の腕を見下ろす。
 肘から先がない腕。止血をするまでもなく、傷口は潰されてしまっているため、今のところ血はある程度止まっている。
 腕。
 腕が。
 大切な、大切な大切な腕が、手が、指が。完全に失われた。
 それは紫木一姫の所有する能力において、最も必要な要素。糸遣いが指を失くしてしまっては、もう何も出来ない。戦う手段は永遠に失われた。
 たくさんの人間を屠ってきた業深き両腕は、これで永遠に失われた。

 ――これで、姫ちゃんは普通になれるですかね。

 あはは、と笑いながら、一姫はそう声を出さずに呟く。
 抜けきらなかった癖。澄百合学園において刷り込まれたあの悪癖も、こうして戦う手段がなくなれば意味を成さない。今回のように戦いに自らおもむくこともできない。師匠の言うように、そういった殺伐としたことは考えないで生きていけるかもしれない。
 そんな未来が、待ってるかもしれない。
「なんて、夢見ちゃいけませんかね」
 泣きそうな声で、一姫は声を出した。
 何かを成し遂げたはずなのに、何かが変わるはずなのに、一姫の中にあるのは喪失感でしかなかった。大事なものを失くしてしまった様に、一姫の心にはぽっかりと大きな穴が開いてしまっていた。
 だから放心している。
 その理解できない感情に、呆然とすることしかできないのだ。
「行かなきゃ」
 やがて、一姫は呟きながら、まともに働かない思考を叱咤しつつ立ち上がる。
 なくなった腕に違和感を覚えるが、意識しないように努める。無数にある傷に痛みなどはなく、ただ脱力感しかない。
 これからどうすればいいかということは考えてなかった。ただ、いつまでもこの場所にいるわけにはいかないと思ったのだ。とりあえず、この終わってしまった場所にずっといるのはいけないと思い、一姫は移動をしようとして――

 ――そして、近づいてくる人影に気づいた。

 艶やかで美しい、腰まで届くほどの長い髪。
 前髪を押し上げるようにかけられたメガネ。
 服装は、《彼女》がこの診療所で初めに着ていた拘束衣。ただし、その呪縛は今、完全に解かれていた。乱暴に破り千切ったように、縫い付けられていた袖は破けている。そのため、袖の間からは、その長い腕が惜しげもなく伸びていた。
 その顔は、嫌というほど覚えがある。

 ――その顔と瓜二つの首が、すぐそばに転がっているのだから。

「な、なん、で……」
 絞り出すように、それだけを一姫は口にする。
 対して、彼女は――
 黙ったまま、ゆっくりと、緩慢に、一姫の元へ近づいてくる。
 その無言の威圧に、
 一姫は、凍りついた。
「理澄……」
 ポツリと、
 呟き声が聞こえたのは、その人物が一姫の少し前に立ったときだった。
「よくも。……よくも、理澄を殺してくれやがったな」
 押し殺すような、低い声。
 それはあまりにも質が違いすぎる声だったが――しかし一姫は、その声を聴いた瞬間、それが《彼女》ではなく《彼》であることを悟る。
 彼の哄笑が蘇る。
 あのテンションの高い笑い声が、頭の中を反響するようだった。
「どうして……っ」
 殺したはずだ。
 匂宮出夢は、
 匂宮理澄は、
 この自分が、殺したはずなのにっ!

 どうして、目の前には、匂宮出夢が立っている……?

 ゆらり、ゆらりと近づく出夢。
 その姿に恐怖を覚えながらも、一姫の切り替えは早かった。
 敵が目の前にいるのだ。
 人に会ったら敵と疑えと教わった。
 敵に会ったらすぐ殺せと教わった。
 澄百合学園で――首吊高校で教わったことだ。
 その習慣は未だ抜けていない。敵が目の前にいる。だから、一姫は戦わなければならない。
 くいっと、
 一姫はいつもどおり、辺りに撒き散らしてある糸をたぐりよせようとして――
「――あ」
 呆けたような声を漏らす。
 従えるはずの糸の感触を感じない。
 当たり前だ。だって、彼女の両腕は、既に存在しないのだから。
「あ、ああ、ぁ」
 両腕は永遠に失われたはずだ。
 そのことは、しっかりと確認したはずなのに。そのことははっきりと自覚したはずなのに。そしてその上で、新しい生活が待っているかもしれないなどと、夢物語だと自覚しながらも、そんな夢を見たのに。

 結局は、変わることなどできないのか。

 自分で勝手にショックを受けて、一姫はその場に膝を着く。
 そんな一姫に、出夢は残酷にも迫り続ける。
 その長い腕をおもむろに伸ばしながら、彼はゆっくりと一姫に迫る。
「なぁ、紫木」
 ポンと、軽く出夢の右手が、一姫の頭に乗せられる。
 一姫は虚ろな目でそれを見上げるばかりだった。すでに抵抗する気は失せている。残っているのは、どうしようもないほど拡大した喪失感だけ。まるで死んでいるように反応を見せない彼女に、出夢は言う。
「一体何がしたかったんだ?」
 それは、一姫への問いかけであろうが、それ以外のニュアンスがあるようにも見えた。
 どちらにしても、呆然としたままの一姫は答えない。
 その姿を見て、出夢はすべてを諦めきったように表情を暗く染めると、一姫の頭を強く握りこんだ。
 万力で締められたかのような痛みが一姫を襲う。しかしもう、たいした反応は出来ない。
 ああ、と彼女は僅かに残った思考で考える。
 自分は一体、何をしたかったんだろう、と。
 出夢の手が捻られる。
 それに従うように、彼に握られた彼女の頭は、当然同じように動く。
 痛みを感じる暇もなかった。
 そんな一瞬の間に、一姫は、何を思っただろうか。
 アメリカでのことだろうか。
 澄百合学園でのことだろうか。
 骨董アパートでのことだろうか。
 二ヶ月間の高校でのことだろうか。
 今まで出会った人々のことだろうか。
 そして――
 恋い慕った、あの青年のことだろうか。
 最後に何を思ったかは、彼女のみが知る。
 そうして彼女は、その短い生涯を閉じた。
 紫木一姫の、平凡で凡庸な、しかし不幸で残酷な人生は、ここで幕を閉じる。

◇◇◇

 匂宮出夢は一人、その場に立ち尽くしていた。
 足元には、少女の死体。
 紫木一姫は、両腕を肘の先で千切られ、首がありえない方向へ捻じれて事切れていた。
 その様子を呆然と眺め、彼は次に少し先を見る。
 そこにも死体があった。
 そちらも、少女の死体。
 首と胴が切り離された死体。
 その死体の首は、出夢と瓜二つで――
「理澄……」
 ゆらゆらと、
 よろよろと、
 出夢は彼女の名前を呼びながら、おぼつかない足取りで歩く。
 死んでいる。
 死んでいる。
 妹が、死んでいる。
 最愛の妹が。唯一の肉親が。大切な家族が。無残にも、死んでいる。
 自身の半身が、死んでいる。
 出夢はその死体の前にかがみこむと、理澄の頭をそっと抱き上げた。
「理澄」
 呼びかける。
「理澄」
 何度も呼びかける。
「理澄」
 飽きることなく、呼び続ける。
 それでも、答えは返ってこない。
 匂宮兄妹の肩翼は、綺麗に散ってしまった。
 やがて、出夢は立ち上がる。
 吹っ切れたわけではないだろうが、その瞳には何らかの意思が宿っていた。
 理澄の頭を脇に抱え、――そして、理澄の体をもう片方の肩に乗せると、彼はその場から離れた。
 向かう先は、自分たちが泊まるはずだった部屋。
 西東診療所の二階の一室にたどり着くと、出夢は理澄の体をベッドの上に寝かせる。
 頭は、体に合うように添えた。
 そして、おもむろに腕を上げると、
 思いっきり死亡した理澄の体に向けて平手を叩き込んだ。
 それは《一喰い(イーティングワン)》ほど強力ではないが、それでも異常な威力を誇っていた。
 死体の胸に手を埋め、心臓を引き抜く。
 命の証である、心臓を引き抜いた。

 ――そうして、匂宮出夢という存在は死亡した。

 首を刈られて死んだ理澄。
 胸を穿たれて死んだ出夢。
 匂宮兄妹はこれで死んだ。
「殺戮は一日一時間だ」
 ぼそりと、出夢は呟く。
 紫木一姫と戦闘を開始してから、今はどれほど時間が経っているだろうか。
 軽く確認すると、四十分といったところだった。
 あれほどの戦闘を行い、その上あの青年の身内である少女を殺してしまったのだ。
 もう、約束に意味はない。
 ゆらりゆらりと、夢遊病者のように出夢は部屋から出る。
 次に行うことは決まっていた。もう、ここまで話がこじれてしまったなら、予定は繰り上げるしかない。もともと仕事できていたのだ。殺し屋としての仕事。狐面の男に依頼された、木賀峰約と朽葉円の殺害。その仕事を終了させる。
 幸い、理澄の調査は一日と家でもあらかた終了していた。といっても、情報不足の感は否めない。それは仕方がないことだ。だから、彼は正直に話すつもりだった。
 自分は狐さんに依頼されてお前たちを殺す、と。
 その答えに何が帰ってこようと関係ない。
 どんな答えが返ってこようと、そんなことはどちらでも同じことだ。
「…………」
 出夢は終始無言。
 無言であるとともに、無心でもあった。
 まだ何も考えない。理澄が死んでしまったことも、これからどうするかも、何も考えない。まず先にやるべきことを片付ける。考えるのはそれからだ。
 そうして匂宮出夢は、
 続きの研究者と終わった少女に会いに行く。

※※※

 夜が明け、朝が来た。
 早朝。
 昨夜《殺し屋》と《狂戦士》による大々的な戦闘が行われた中庭は、その惨状を物語る悲惨さを残していた。
 血の海。
 肉片と肉塊。
 地獄を物語るその中心に、血だまりの中に浮かぶように、少女の死体があった。
 その場に、一人の青年が現れる。
 これといった特徴のない青年。彼の表情は酷く青く、まるでここにつくまでの間に無数の地獄を見てきたかのような表情で中庭に現れた。
 呆然と、青年は佇んでいる。
 やがて、彼は携帯電話を取り出し、何かを話す。
 数回の言葉の応酬。
 それで携帯電話をしまうと、彼はおもむろに血だまりの中を歩き始めた。
 生乾きの血だまりの中を、ぺちゃりぺちゃりと音をたてながら歩く。そして少女の死体へと至ると、彼は迷いもなくその体を抱き上げた。
 血が付着するのも気にせず、
 彼はそのままぶつぶつと何かを呟く。
 その言葉は懺悔か。
 恨み言か。
 自責の言葉か。
 やがて、彼は何かを吹っ切ったかのように死体を手放すと、すっと立ち上がる。
 完全に吹っ切れたのだろうか。
 彼は、まるで未練はないとでも言うように、その場から離れようとする。
 と。
 建物に戻る途中で、彼はふと立ち止まる。
 なにか忘れていることでもあったのだろうか。
 彼はくるりと死体の方を振り返ると、一言少女へと語りかけた。

「姫ちゃん、おつかれさま」

 ばいばい。
 さよなら。
 おやすみなさい。
 そして青年は、すべての仕事を終えたように普通の足取りで歩き始めた。

                                           《If worlds another ending》is the end.
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コメント

 あとがきという名の言い訳

 とりあえず、書きあがりました。『ジグザグイリズム』まあ、この題名の意味はなんとなく分かると思いますが。

 えーと、とりあえず言わなければいけないことは匂宮兄妹について。
 ヒトクイマジカルの終章において、この兄妹のからくりが明かされるわけですが、あそこで語られたものを考えると、この文章での描写はちょっと違うんじゃないの、と思ってしまうかもしれません。
 二重人格を騙った双子。それで、出夢の方が理澄を少しだけ操れる。
 これが真相だったわけですが、この文章では、なんか違います。違う訳は、まあ僕が長い間そんな風に考えてしまっていた所為で、気づいたあともなんだかんだでその考えを捨て切れなかったのですが。(実際、あんまり支障もないし)

 これを書くに当たって訂正しとこうかとも思ったんですけど、そっちのバージョンはボツ。理由は簡単。書きにくかったから。
 だって、もしその通りにやるとすると、一番初めから姫ちゃんの前には出夢と理澄の二人が現れることになりますから。
 だいたい、匂宮兄妹のことはトップシークレット中のトップシークレットなのに、そう簡単に真相をバラす訳がないじゃないか。と思ったわけです。一応、一番初めの段階では姫ちゃんに対して説得を試みるのが条件なので、そんな殺す理由を作るようなことをするはずがない。だから、一人死んだ後にもう一人が出てきた、という形式の方が自然じゃないかな、と思ったのです。

 あと、一対一での戦いにおいて、姫ちゃんに敵うとは思えないという戯言遣いの疑問について、原作では二人で戦ったから大丈夫とありましたが、二人で戦っても《曲絃糸》の性質上、勝率は……な気がしますし、それじゃあ初めから理澄が捨て駒扱いじゃないか、と思ったのも理由です。
 そもそも、『弱さ』を担当するはずの理澄が戦闘に参加するのはどうかなと思っていました。一応、出夢による操作がある程度できるという設定もあったのでそれを利用して二対一に持ち込んだのかもという妄想もしたのですが、それじゃあ出夢くんが戦闘に集中できないんじゃ……。
 だから、ここでの理由は双方ともいろいろな思いに邪魔されて戦闘に集中できなかったから、というものにしておきました。結構心理的な戦闘力の変動が大きかったですし。

 というわけで、こんなことになりました。
 あと、この考えでも十分いけるんじゃないか、と思った理由は、『零崎人識の人間関係』を読んでからです。あそこでの、直木飛縁魔の必殺を受けても生き延びていた理由を読んで、「あ、じゃあギリギリいけるんじゃね?」って思ったわけです。まあ、勘違いですけど。

 まあ、そんなこんなでここまで言い訳でした。

[2008/09/27 21:47] URL | 西織白夜 #fBhJEaUc [ 編集 ]

通りすがりの闇突
すごっ!!

・・・すみません。またもや取り乱してしまいました。
いやあ、すごいでっすね~。わたしも一回戯言の二次創作書こうとしたんですが、・・・悲惨でしたよ~。それにひきかえ緊迫感?すごかったです。

・・・通りすがりの闇突でした。またいつかきます。
[2008/09/28 12:43] URL | 玉藻 #- [ 編集 ]


読んでいただきありがとうございます。やった、褒められた!

はぁ。しかし、何度も止まりそうになったのを思うとホント完成してよかった……。
[2008/09/28 19:59] URL | 西織白夜 #fBhJEaUc [ 編集 ]


うッ…これはすごいと言わざる負えない

最後から最後まで続く緊張感
原作に忠実な表現や細かい心理描写

設定がこまかいです
最初から最後までの話が無理なくつながる

理澄との交替は二次創作なのでありかと

なかなかクォリティーの高い作品ごっつぁんでした
[2008/09/29 21:03] URL | 狐 #- [ 編集 ]


違和感無く読んでもらえたようで光栄です。

一応、これ書くために何度もヒトクイマジカルの死体の描写を読み返しました。初めはてっきり姫ちゃんの死因は《イーティングワン》によるものだと思っていたのですが、よく読むと千切れてたのは両腕だけで、頭はありえない方に向いているだけという。そこをどう決着つけるかが大変でした。
……っていうか、ここで書かれたような方法で《イーティングワン》が手加減できるとはどうにも思えないんですけどね(苦笑)

それと、もう一つ困ったのが、姫ちゃんの描写が少ないこと。考えてみたらまともに登場してるの『クビツリ』と『ヒトクイ』だけじゃん! 肝心のジグザグ師匠との絡みもまだだし……。もし『人間関係』が全部公開されていたら、その辺の描写も入れられたのにと思うと心残りです。

あと、出来たら『ディクショナル』で言われていた、出夢が言ったという「こいつが馬鹿じゃなかったら負けてたぜ」ってセリフを言わせたかったんだけど……言わせる余地はあったはずなのに、いつの間にかなくなってました。それも心残りだぁ。
[2008/09/29 21:42] URL | 西織白夜 #fBhJEaUc [ 編集 ]


待ってました!戯言の二次小説は色々ありますが、ここまで面白くって西尾さんらしさとオリジナル感がバランスいい作品は初めてです!

個人的にも姫ちゃん大好きなんで、バトルのあたりは夢中で読んじゃいました…
また色々書いてみて下さい。応援します!
[2008/10/04 20:34] URL | メイ #- [ 編集 ]


うぅ、こんなに褒められていいのだろうか。(二次創作でしか褒められないってのも複雑だけど)

姫ちゃんは僕も好きなんですけど、如何せんエピソードが少なすぎてちょっと不満です。その辺、着々と伏線回収している『人識の人間関係』でフォローされることを期待していますけどね。

なにかネタができたら書きたいと思います。(でも、本編で語られていないエピソードって曖昧なものくらいしか残っていないんだよなぁ)
[2008/10/04 21:12] URL | 西織白夜 #fBhJEaUc [ 編集 ]


まじですごいです!!
本物の西尾維新さんが書いたかと思っちゃいました。
わたしも影で二次創作とか書いてたりするんですが、どれもストーリー性ゼロの駄作ばっかりで。
西織様の書く作品が眩しいですw

これからもすてきな二次創作、書いてくださいね。
個人的には、鈴無音々さんの『ヤバイ過去』ってのが気になります・・・・・・
[2010/10/20 16:48] URL | 撫桐零夢 #- [ 編集 ]


褒めていただいてありがとうございます!  うう、二年前の記事を未だに見てもらえて、さらにはコメントまでもらえるなんて嬉しいです。

二次創作は、できるだけ原作から乖離しないようにと思ってしまうので、今回のように語られていないエピソードで、永遠に語られることがないだろうというエピソードくらいしか書けないのですが……。また何か挑戦してみようかなぁとはおもっています。

もしよろしければ、別にブログを作っております、自作小説の方もよろしくお願いします。
[2010/10/20 22:55] URL | 西織 #fBhJEaUc [ 編集 ]


本当に西尾維新さんと間違いそうになるくらい上手かったです!!西織さんに、息災と、親愛と、幸福を!
[2011/02/19 18:11] URL | 杏仁 #- [ 編集 ]


コメントありがとうございます!
書いたのがなにぶん二年以上前なんで、今読み返すといろいろ不満な点も多いですが、褒めていただいてありがたいです。せめて双識との関係が出ていたら姫ちゃんの人格コピーネタも入れられたものを……。
[2011/02/20 03:49] URL | 西織 #fBhJEaUc [ 編集 ]


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西織

Author:西織
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性別:男
年齢:22歳
血液型:A型
趣味:読書&執筆
将来の夢:作家(前途多難)

本の感想などを見たい人は、こちらをどうぞ
『空っぽの知識(読書日記)』
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